2026年3月18日
【読書ログ】異常【アノマリー】【もし別の自分が、今も生きているとしたら】
「もし別の道を選んでいたら」と考えることは、誰でも一度はあると思う。あの仕事を断っていたら。あの人と別れていなかったら。そういう思考実験は、たいてい頭の中だけで完結して終わる。では、もし「別の道を選んだ自分」が実際に目の前に現れたとしたら——エルヴェ・ル・テリエの『異常【アノマリー】』は、そこから始まる。
パリ発ニューヨーク行きのエールフランス006便が、2021年3月に巨大な乱気流に巻き込まれた。乗客は奇跡的に生還し、それぞれの日常に戻っていく。ところが約3カ月後、同じ006便が再びニューヨークに着陸した。乗客も乗員も、3月の便とまったく同じ242名が、まったく同じ記憶を持ったまま、搭乗口に降り立つ。3月に着陸した「最初の彼ら」は、その後の3カ月をそれぞれに生きてきた。「後から来た彼ら」は、3月の記憶から先が存在しない。
この設定が明かされるまでの第一部が、本書の巧みさの核心だと思う。殺し屋、ポップスター、売れない作家、軍人の妻、がんを告知された男——ばらばらに見える人物たちのエピソードが断片的に積み重なっていき、ある時点でそれらが同じ飛行機の乗客だったと気づく。謎の全貌が見えていない状態で読まされる第一部の居心地の悪さは、伏線とわかったあとに読み返すと驚くほど緻密に設計されている。
著者のル・テリエは数学者・言語学者・小説家と多方面で活躍し、1992年より国際的な文学グループ〈潜在的文学工房(ウリポ)〉のメンバーとして小説の新しい形式と構造を探求してきた人物だ。ウリポはあのジョルジュ・ペレックやイタロ・カルヴィーノも参加した実験的な文学集団で、「制約の中でいかに豊かな表現を生むか」を追求してきた。そのバックグラウンドが本書の構造的な精巧さに直結している。SFの設定を借りながら、この小説は根本的には「人間の同一性とは何か」という哲学的問いを扱っている。
分身と対面した人々の反応がそれぞれ違うのが読み応えのある部分だ。宗教に答えを求める者、法的・科学的に整理しようとする者、ただ混乱して崩れていく者。想像を遥かに凌駕する出来事に遭遇したとき、私たちがそれにどう向き合うかは千差万別であり、向き合い方次第でその人の本質が明らかになる。この観察が本書の隠れた主題でもある。異常事態はあくまでもレンズであって、その向こうに透けて見えるのは、日常を生きる人間の輪郭だ。
テッド・チャンの短篇に通じる感覚があるという声をよく見かけるが、確かにそうだと思う。突拍子もない前提を置いたうえで、そこから人間の本質を浮かび上がらせる手法が似ている。ただテッド・チャンよりずっと群像劇的で、登場人物の数と多様性がこの小説の豊かさになっている。242人のうち主役級に描かれるのは十数名だが、その十数名の書き分けが鮮明で、誰かしら自分と重なる人物が見つかるはずだ。
2020年にゴンクール賞を受賞し、フランス国内で110万部を突破した。日本では第3回みんなのつぶやき文学賞の海外篇1位にも選ばれている。これだけ広く読まれた理由は、読み終えるとよくわかる。難解な哲学書ではなく、スリラーとして引っ張りながら、気づいたら深いところに連れて行かれている。そのバランスが見事だ。
もし別の自分が今も生きているとしたら、その自分はどんな3カ月を過ごしてきたのだろう。読み終えてしばらく、そのことを考え続けた。