同志少女よ、敵を撃て

本書は、独ソ戦只中の1942年、モスクワ近郊に住む農村の少女セラフィマが、急襲したドイツ軍の兵士に母親を殺されたことから始まる、復讐と命の物語。

ふと、テレビに流れるウクライナ進行のニュースを目にする。

そこに映し出されていたのは、生気の薄れた廃墟群と、悲痛な声をあげる人々。

食い入るように見れば見るほど、戦争という簡素な2文字に込められた言葉には、平和的解決からは程遠い、暴力と血生臭いものが漂ってくる。

わたしは、そっと、テレビの電源を落とした。

わたしは、戦争を肌で経験したこともないし、ましてや、感じたいとも思ってこなかった。

平和ボケしているわたしにとっては、戦争はどこか遠いお伽噺のような感覚を持っていたからだし、だからこそ、日常の中に戦争という文字が食い込んでいけばいくほど、違和感を覚え始めていた。

次第に、この違和感の正体が戦争に対して無知でいることだと認識し始めたので、まずは、戦争に触れてて、読みやすそうな本から知っていこうと思い、手をつけてみました。

 

感想

本書はひとえに、命の意味を問い続けた作品なのかな……という印象。

戦争を経験していないからこそ、自分の立場に置き換えて考えることができない歯痒さと、痛みに耐え続けて読んでいました(自分の肉親を殺されたことは一度もないし、ましてや、自らの手で人の命を奪ったことはないし)。

ゆえに、わたしの言葉は薄っぺらくなってしまうことは重々承知だけど、戦争について思ったのは、

戦争っていうのは、互いが互いの正義があって、それが折り合いがつかなくなって起きてしまうこと。

妥協点を探り合うことの難しさであったり、前線に立たされる人たちの価値が希釈されていたり。思うところは多々ある。

そんな環境を身近に感じられることができる現在だからこそ、「当事者の命」、そしてその意味を強く考えることっていうのは大事なんだなと思えました。

もっと、いろいろな知識をつけていきたい。

作者: 逢坂 冬馬
早川書房

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