流れよわが涙、と警官は言った

本作は、ディックの作品のなかでも自叙伝的な色合いが強く出ている作品。とりわけ、なぜSFを介して著者が架空を描いているのか、その理由に触れることができる。

あらすじ

3000万人のファンから愛されるマルチタレント、ジェイスン・タヴァナーは、安ホテルの不潔なベットで目覚めた。昨夜番組のあと、思わぬ事故で意識不明となり、ここに収容されたらしい。体は回復したものの、恐るべき事実が判明した。身分証明書が消えていたばかりか、国家の膨大なデータバンクから、彼に関する全記録が消え失せていたのだ。友人や恋人も、彼をまったく覚えていない。"存在しない男"となったタヴァナーは、警官から追われながらも、悪夢の突破口を必死に探し求めるが……現実の裏側に潜む不条理を描くジョン・W・キャンベル記念賞受賞作!

自分だけが忘れ去られた世界で、自分を証明するには一体どうすればいいのだろうか。自分を識別してくれるはずの公的情報は全て消失し、関わりを持った人々の記憶からもいなくなる。恐怖、震え。ルールによって形成されていた社会に身をおきながら、それと同時に説明することができない非論理的な力——集合的無意識による深淵からの束縛を受ける。

自由意志の否定。死にたくなるような現実。しかし、身に降りかかった困難を前に対して、あきらめるでも、無視するでもなく、徹底的に抵抗する。その原動力は人間なら誰しも備わっている生存本能によるものだ。

ただ、そんな本能にも限界がある。という主張が本書のキーワード。では、本能に代わるものは一体なんなのか。

そう、愛だ。

一口に愛と言ってもさまざまな形がある。男女間で育むもの。店でみかけた品物を自分のもとにおいて愛でるもの。そして、自分自身のためではなく、別の人間のために生きるもの。それこそが本書の重要視する愛だ。キリスト教における隣人愛の概念に近い。

そういう意味での愛を理解せず、欲望の赴くままに行動してきた主人公がいくつく先はどこなのか。そして、主人公が世界から忘れ去られた理由は一体なんだったのか。

謎が謎を呼ぶ本作を是非。

作者: フィリップ・キンドレッド・ディック/友枝康子
早川書房

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