脳をどのように考えるか、おそらく現代社会において一番しっくりくる見方としては、脳を制御系の一部として捉えることです。脳の一方に何かしらの情報が入力されると、他方で出力される。入力と出力の調整部としての機能を持つのが脳である。こう考えるとわかりやすいでしょう。
具体的には、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触る、といった感覚が脳へと入力され、その入力を脳があれこれ処理して、出力されます。その出力は往々にして運動にあたります。
ただ、人の運動はすべからく筋・骨格系を介します。日常生活を脳を起点として考えたとき、入力は五感、出力は筋・骨格系となるのです。
脳をこのように考えると、多くの疑問が残ります。それは、脳の入出力を考えたとき、不明瞭な処理があるからです。典型的なのは、意識と呼ばれるものです。それに付随して、「心」も挙げられます。本書では、これらの問題に対して「無意識」の「意識」に着目することで、切り込んでいく一冊となっています。
本書目次
第1章 「心」―もうわかっていることと、まだわからないこと(心の五つの働き;意識の三つの謎 ほか)
第2章 「私」は受動的―新しいパラダイム(からだのどこまでが自分なのか?;脳=「私」、ではない!? ほか)
第3章 人の心のたねあかし―意識の三つの謎を解く(「私」は心を結びつけてはいない;「私」は何のために存在するのか? ほか)
第4章 心の過去と未来―昆虫からロボットまで(動物は心を持つか?;昆虫の気持ちになってみると!? ほか)
第5章 補遺―「小びと」たちのしくみ(コンピュータと脳は同じか?;ニューラルネットワークは万能コンピュータ? ほか)
自分は無個性的でいやな気持に陥りやすいケがある人とか、生きる意味に迷ったときに読むのが最適です。ある種の開き直りを述べた一説や、<私>を規定するものは、無個性で無に近い存在だということ(p. 174)がわかります。
「心」に迫っていく中で、偉人たちとの思想の相似点を見つけ出せるのも素晴らしい。例えば、「性、相近し、習、相遠し」っていう論語にも通ずるところを推理小説的な切り口として追えるのもなかなかに興味深い。
本書を読み終えたら、心がすっと救われたような気がしました。
機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間に、私は身ぶるいした。私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。 ——井上究一郎:訳 『失われた時を求めて』 「プルースト全集」1 筑摩書房:刊 1984