著者は海外SF三大巨匠がうちの一人。日本において、おそらく一番人気は『夏への扉』、知名度では『宇宙の戦士』が一番だと思うけれど、世界規模で人びとに影響を与えた度合いだと本書がダントツだろう。なにしろ、本書に登場する"火星語"の"grok"という単語はオックスフォード英語大辞典に載っているのだ。XがチャットAIとして「Grok」を追加したのも記憶に新しい。
ここでざっくり中身説明。
宇宙船ヴィクトリア号が連れ帰った“火星からきた男”は、第一次火星探検船で生まれ、火星に生き残った唯一の地球人だった。この宇宙の孤児をめぐってまき起こる波瀾のかずかず。円熟の境にはいったハインラインが、その思想と世界観をそそぎこみ、全米のヒッピーたちの聖典として話題をまいた問題作。ヒューゴー賞受賞大作!
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本筋は、火星語をベースとした思想体系が地球人に全能の目をもたらす。という、いたってシンプルな過程を描いたものだ。もちろん、その部分だけがハインラインの意図ではない。火星にまつわる財産権と、それを手中に収めようとする連邦政府の戯画化された動きから見える風刺、幸福を与えるのではなく悟るという既存宗教への抵抗、カニバリズム、差別的ジェンダー・ギャップといった現代のタブー。ロダン作品、ニーチェのアポロン/ディオニソス的芸術論。数え出したらきりがないほどのアイデアの宝庫。それらコミコミで実際の分量は770頁オーバー。めちゃくちゃ分厚い、って思う。てか思った。特に、ハインラインの自己投影とされるキャラであるジュバル・ハーショーの会話シーンの密度。形而上学的な会話が一会話分だけで見開き一枚まるまるぎっちり詰まっているのだ。しかもそういう形式を五月雨撃ちしてくる。一体いつから小説を読んでいると錯覚していた? ばりに哲学書を自力で紐解く感覚に浸かること必死。不思議なもので、四苦八苦しながらgrokできる範囲が広がるうちに楽しくなってくる。メタファーと風刺、ときおり挟まるプラックジョークにクスッと笑えるくらいには。真理を得るのに努力が必要という本書の主張が、この本を通して感じられるのは趣深い。ただ、そういう性質な本に加えてScience感はほぼゼロなので、SFとはSci-fi以外は認められないという人には合わないことは確か。どちらかというと、純文学が好きな人におすすめできる本であるといえる。
火星語がもたらす全能感
火星語とは、文字通り火星人が利用している言語であって、物事のありのままの姿をそのまま描写できる性質を持つ。それを用いて世界を認識することによって、テレパシーを送ったり、ものを浮かせたり、なんなら人を消したりすることも可能なトンデモ言語。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』、チャイナ・ミエヴィル『言語都市』、テッド・チャン「あたなの人生の物語」(短篇集『あなたの人生の物語』収録の表題作、Science感がかなり強くて個人的に一番好き)など言語を取り扱ったSFは数多く存在するが、いずれも共通して既存の枠組みから「擬似的に」新たな世界を認識できる魔力が本作でも遺憾無く発揮されている。
わたしたちは魂を救うことはしない。魂は失われることはできないのよ。ひとびとに信仰をもたせることもしないわ。あたえるものは信仰ではなく真実なのよ。(中略)戦争も飢えも暴力も憎しみも不必要にしてしまうほど具体的な……
火星語がもたらす心理への道に、惹きつけられずにはいられない。