「ねー聞いてる?」
妙に聞き慣れた声、鈴を転がしたような甘ったるい声が耳元でつぶやかれる。
僕は読みかけの本に栞を挟んでからパタリと閉じると、目の前の席に座っている幼馴染に目を向けた。
艷やかな黒髪から覗く二つの鋭い双眸、その鋭さが丸っこい眼鏡のおかげで幾分か和らいでいるとはいえ直視するのはなかなか至難の業だったので、視線を黒板に移す。
「人と話す時はちゃんと目を見て」
「痛ったぁ」
両頬に柔らかな感触が触れたと知覚したその刹那、ねじ切れんばかりの膂力でもって否応なしに相対させられる。
この獰悪女め。僕は一人心の中で毒づくいてはみたものの、屈託のない笑みを浮かべていた薫の姿に何だか毒気が抜かれてしまったので、バレないように小さくため息をついた。
「わりぃ、で、何の話?」
「何を読んでるの?」
「珍しいな、おまえが本に興味を示すなんて」
「その言葉、そっくりそのまんまあんたに返すわよ」
薫は小さい掌でやれやれっていうジェスチャー。言われてみれば確かに、生まれてこの方本なんていう高尚なものは進んで読んできたことはなかったが、きょうは珍しく読んでみようという気になったのだ。気の迷いといえば気の迷いだが、有り体に言えば、テレビゲームにも飽きてきたし、よっぽど暇だったんだと思う。
「たまにはこういうのも悪くない」
「ふーん、それで、」
薫は視線を下ろすと、机の上に置いてあった本の表紙をじっと眺めた。
「『自省録』? フフッ」
薫は小さい手で口を塞ぎながら、慎ましやかに笑った。
「何か可笑しいか?」
「だって反省のはの字も無いあんたが、こんな本を読んでたって、プフッ」
俺は冷ややかな視線を薫に送る。
「ごめんごめん、悪気はないから」
「そういうのがたち悪いんだけどな」
薫はわざとらしく可愛らしい咳払いを挟むと、
「それで、どんな内容なの?」
と、言った。
「さぁ」
「さぁ?」
「わからねぇ」
「はい?」
「いや、だから、文字通りわからねぇ」
侮蔑とも嘲笑とも捉えられない、強いて言うなら哀れみの表情を浮かべると、薫は机の上の本を優しく持ち上げ、
「この本貸してよ。明日にはちゃんと内容を噛み砕いて教えてあげるから」
「枕代りに使ってそうだけどな」
「何か言った?」
「いや、何も」
「じゃあ楽しみにしててー」
掌をひらひらさせると、颯爽と講義室から去っていった。
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翌日。
「それで、この本を読んで何かわかったのか?」
「えっと、ほら、あれよ、昨日は途中で友達とご飯食べていって、そのあと買い物行って、それから」
「読んでないと?」
「いや、そんなわけないじゃない。昨日は寝る前に集中できるように柑橘系のアロマ炊いてさ、これがすっごい捗るの、そうそう、朔に言ってなかったっけ? 最近アロマにハマってて、」
「ったく」
受け取った本の背表紙で薫の頭を小突くと、薫はわざとらしく頭を抱えた。
「読んでないなら正直に言いなさい」
「すみませんでした」
「素直でよろしい」
僕は本をリュックサックにしまった。
「それで、結局どういう本なの?」
「さあね」
講義室から出ようとしたら、「ちょっと待ちなさいよー」薫がついてきた。
他愛のない話をしながらの帰り道、夕暮れ時に映える薫の姿に胸が高まっていたのはここだけの秘密だ。
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きょうの一冊 『自省録』
マルクス・アウレーリウス、神谷 美恵子(訳)
岩波文庫