吾輩は猫である改版

ここのところ純文学沼にハマっているので、小学生の時分から大好きな夏目漱石の『吾輩は猫である』を改めて読んでみました。

これがまたすごいのなんのって、

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

序文から、『原点にして頂点でしょ』っていう感想が頭の中に浮かぶんですよ。

描写が見えるとか、見えないとか、そういうことじゃなくて、声に出して読みたい日本語の筆頭を飾ってもおかしくないでしょこれ。

猫が言葉を喋れるなんて、普通、意味わからなくないですか?

化け猫の類とかの伝記といったら猫娘の印象が強くて、古くは江戸時代の『安政雑記』から、現代では『ゲゲゲの鬼太郎』のように取り上げられてはいるけど、ほとんどの描写で人間に対して害ないし、猫の素質を持っただけの人として書かれるほど、妙な無機質さがあるんですよね。それに、猫は犬みたいに古来から人間と共存しているわけでもないし、愛玩要素くらいしか書くことなくない?

そんな10代の頃の勝手な思い込みを根本から壊してくれた作品だったのを読了しながら思い出して、読み終わった今でも胸の高鳴りがおさえられません。

初めてこの本に出会った頃は、どこまでいっても借りてきた猫状態で物語に接していたんだけど、何回も何回も読んでいるうちに、アラサー近くなって、ようやく古典の良さがわかり始めてきたんでしょうか?

感想

猫の視点から人間に対する憧憬と絶望を客観的に描写してるのは恐怖しかありません。だって、そんな芸当ができてしまったら、人間の存在そのものの意義を人間として生きながら想像できていたってことですよ?

慧眼とか審美眼とか、そういう生ぬるい単語では表現できません。

空恐ろしいほどの究極的な恐怖。私が思い描く夏目漱石を夏目漱石たらしめるものは、それです。

人間に迫ってしまった、化け物じみた、人外に対する恐怖。それこそ、本作の猫に対して感じたものと同義の。

純文学の底力を思い知らされました。

純文学万歳。

作者: 夏目漱石
新潮社

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