カウント・ゼロ

サイバーパンクは国家という概念を希釈した。ハイテクノロジーを所有する多国籍企業が多層構造を織りなす世界の頂点に君臨し、そこからインターネットを介してヒゲ根を生やすように世界がリンクする。国家などという概念を真面目に受け取っている未開の地は時代遅れの産物としてビズの餌食となり、数えきれないほどの人間が苦しむことになる。

このようにして引き起こされたテクノロジーによるパラダイム・シフトは、真の教義の飛躍という意味において神学への投機を促すことになる。それは現代において、グーグルエンジニアがthere’s a ghost in the machineと主張して波紋を広げたように、対話型AIの飛躍にも通ずるところがあるだろう。

本作の『カウント・ゼロ』においても、神というキーワードは重要な要素となってくる。具体的には、ブードゥー神の「ロア」だ。

救済とか超越といった考え方には、かかわらないんだ。要は、ことをなしとげることにある。

——13 両の手で

上記のように、ブードゥー教はサイエントロジーやカトリックとは異なる指向性をはらむ。問題を解決するのは極めて現実的な範疇で、なおかつ、いきすぎた資本主義のディストピアにメスを入れることにある。これは、サイバーパンクが台頭した80年代の気運なのだろうか。

残念なことに、現在はまだまだ国家という「生臭さ」を脱臭しきれていない。人種差別による事件は紙面をにぎわし、右翼左翼といったコトバは掲示板から離れることはない。資本主義とナショナリズムの現代に生きるわたしたちは、それとは気づかず支配構造に巻き込まれ、マインドコントロールされる危険性を孕む。そして、このなかで植え付けられた価値基準においてでしか、物事を判断できなくなると常に隣り合わせだ。

ただ、その様相は大規模言語モデル(LLM)の登場によって変容しつつある。人間主体であった不完全な情報化社会が、アルゴリズム——機械——へと符号化され始めている。その潮流において、新たなステージへと「ジャンプ」するために求められる行為は、芸術的世界への近接であろう。

本作では、不死という完璧な芸術を得ようとして失敗するが(ギルガメシュ叙事詩しかり、始皇帝しかり、不死は実現されないという歴史は悲しきかな……)、ギブスンが思い描くような世界が現実となり始めているなか、彼の著作から得られるものは凄まじい。

芸術という謎に接するには、時として、子供となって接するのがいちばんなのだ。子供は、賢しらな眼に見えないような、あまりにも明白で、あまりにも見えすいたものを、看て取るものだ。

——15 箱

作者: ギブスン ウィリアム
早川書房

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