キリスト教の聖典である『新約聖書』には、「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」と、四つの文章が存在します。これらはひとつにまとまり「福音書」としてイエスの生涯について記しています。それぞれイエスがどのように生き、何を語ったのか、あるいは語らずに体現したのかを描いていますが、本書はこの福音書を通して、イエスという人間の軌跡をトレースすることを目的としています。
しかしながら、単に一つ一つの事実考証をするだけで終わらないのが本書のキモです。ありていにいうと、人生において語り得ぬことの、つまりは、言葉で表現することができない部分を知ることこそ、「生涯を読む」ために必要な要素であると本書は述べています。そして、「福音書」をより高度に抽象化/他の領域に開くことで、キリスト教者以外の人物でも「福音書」の旨みを十二分に知れる一冊となっているのです。
以上を踏まえて本書を紐解くための態度として、民藝運動の指導者として知られる柳宗悦の一節を筆者は挙げます。
福音書は文字によって読まれてはならないのです。あの夥しい経巻は、文字を越えようとする文字なのです。言葉なき境にその言葉を読まないなら、真理の扉を開くことはできないのです。総ての経典は言わざる言葉なのです。人は字義に囚われるにつれて字義から離れるのです。
(柳宗悦『柳宗悦宗教選集 第二巻 神について』
「福音書」は決してむつかしい本ではありません。もちろん、字面通りに言葉を解釈しようとすると、いささか疑問符が浮かぶケースも存在します。ただ気をつけて欲しいのは、そのような言葉の中にこそ、イエスが語ろうとするコトバが詰まっているかもしれないということなのです。つまり、文字をそのままなぞるだけでは十分でなく、文字と文字を越えた先のコトバを感じなければならないのです。
「福音書」を通して、読み手がそれぞれの「イエス」を発見できることを願って。
あなた方が互いに愛し合うこと、
これがわたしの掟である。——(ヨハネによる福音書」15・12)